10月17日金曜 午後3時30分ー5時
Case Worker : 高橋悟(京都市立芸術大学美術学部教授)
進行・スクリプト:高橋悟
1)「 5 月22日金曜日」
空は晴れ渡り春を通り越して初夏の香りさえする日、車道の真ん中に巣が落ちていた。夜の間に何かの動物が卵を狙って襲ったのだろう。あたりにはあの鮮やかなセルリアンブルーの卵のかけらが散らばっている。親鳥の姿は見えない。
春の初め、自宅の車道の脇に植わっているライラックの枝にロビンが巣を作った。車を出す度に鳥が飛び立つのでおかしいなと思ってのぞいたら内側の枝の間にきれいに丸い形に枯れ草等で作ってある巣が見えた。それから車を出すのは左側の車道からだけということにして、多少面倒であるが奥の車止めで方向転換し、お尻を突き出し一生懸命巣を守っている親鳥をなるべく驚かさないようにし、ほんの少し親鳥に協力している気分だった。子鳥がでてくるのを思うだけでわくわくした。毎朝子供が学校に出かけたらそうっと巣を見に行った。今朝まで何事もなく平和にすぎていた。
しばらく巣があった枝を見つめていてなぜ襲われたのか、誰に襲われたのかと考えた。なぜか、いつもより巣があった場所がよく見える。
—ライラックの花が終わったからだ。
枝をしならせるぐらいに満開に咲いていた薄紫の花は茶褐色になりちぢんでしまっている。花に守られて、隠されていたロビンの巣は花が終わって目につくようになってしまっていたのだ。
—満開の花にだまされたんだ。
2 )「となりの芝生」
「私達は見ることを話さないし、話すことを見ない。」その事を考える為に、「法と星座:Turn Coat/ Turn Court 」では、横浜トライアルというCASE を様々なテーマで試みてきました。そして今回が、横浜での最後のCASE となります。まず本題に入る前に、Temporary Foundation という形式の意味と、横浜トリエンナーレへ参加する事になった経緯について触れてみたいと思います。
二年程前の事ですが、私の所属する大学でアーカイブに関する研究機関の創設を進めており、その記念講演への参加依頼で森村宅へ、お伺いしました。その折り、アーカイブや記憶に関してどのようなapproach を考
えているかとの森村氏の問い掛けがあり、私は、第二次大戦中のエルミタージュ美術館で一人の学芸員が行っていた「額縁ツアー」についての話をしました。
絵画が外され、額縁だけが残った巨大な美術館の中で、言葉のみで館内ツアーを行い、イマココにない絵画を鑑賞者達の前に立ち上がらせるという光景には、美術館という一つの制度の原点があるように思われ、その事を森村氏に話ました。
暫くしてから連絡があり、今度は「犬と歩行視」というタイトルで私が、準備していたアーカイブプロジェクトに関して質問がありました。「犬と歩行視」というのは、私が学生だったころ講師をされていた林剛の制作活動を「歩行視」という造語からapproach する事を目的とした展覧会企画です。その時の、森村氏の話の内容は、「エルミタージュ美術館ツアー」と「犬と歩行視」の舞台を変えて、横浜トリエンナーレに組み込めないかというもの。
全く異なる文脈で準備を進めてきた事であり、祝祭性が強いトリエンナーレのような状況にプロジェクトを組み込む事は、方向性を見失う事になるかと思い判断を保留しました。また、森村氏の興味のポイントがどこにあるのか、何度か説明をお聴きしたのですが、見ること、話すこと、歩くこと、記憶など我々が問題としてきたポイントとは、かなりのズレがある事も解ってきました。氏の作品展開の原点に関わる個人的な動機の説明をうけても、それらは「隣の芝生」からの眺めのように聞こえるのでした。そして、このズレは、横浜トリエンナーレが開催されている現在でも残っています。
3)「他者の場所」
Temporary Foundation では、トリエンナーレ会場である美術館の中に外部性を担保する方法を考えました。大きな本の物語に回収されない為です。「法と星座」は、3つのMODELと5つのCASEから構成されています。MODELは、ヒトの行為や役割を演じさせる装置(法廷、病院、庭園、教室など)に関するもの。CASEは、特定のテーマをコトバで読み替えてゆく場を仮設すること。
MODELとCASEの関係は、マグリットの「これはパイプではない」のイメージとコトバのように互いが「裏切り」の関係にあるもので、美術館のオーディオガイドのように、コトバで作品を「解説する」ものではありません。
また、CASEの主催団体の名称も各回変わってゆくようにしました。旧いコトバですが、一時的な「美術館ジャック」のように、トリエンナーレの観客の方々は、「入室禁止」となる仕掛けです。
ただし、個別のCASEでは、「法と星座」プロジェクトと展覧会自体の関係を背景にしながら、「共同体」「権力」「自由意志」「法」といった問題をテーマにする「二段構え」となり、かなりの無理がありました。
4)「共通感覚」
今回のCASE4のタイトルは「犬の9 条」となっています。
法・戦争・災害について美術館をプラットホームにしてapproach するより「そのことについては黙っていることにする」あるいは、他者のコトバを語らされる罠にはまらない為に、「抽象的に考える」事が聡明な選択なのかもしれません。美学では、事件に巻き込まれる行為者であるよりも、対象から一定の距離をおいた場所で冷静な判断力を獲得する「注視者」達によってこそ、美的対象が公共領域に実現されるという考え方があり、それは「静閑の美学」(aesthetics of detachment )と呼ばれています。
そして、そこで要請されるものは、人間が本来持っていると仮定される共通感覚です。これには、五感からバラバラに入る情報を統合して一つの対象として把握する感覚機能という意味があります。さらに、他のすべての人々のことを顧慮し、他者の立場に自己をおくという、共同体感覚という意味も込められています。これは、CASE-1 での芸術経験と想像の共同体との関係、CASE-2での、神経科学的に見た、集団で初めて立ち上がる創発性について、の議論と繋がります。ここで不明なのは「静閑」は選択できるのか、それとも外的な状況が強いるのかという点です。以下は、CASE-1 からの引用です。
小説『門』の冒頭部分、縁側に横になり思いにふける宗助と裁縫をしている御米との会話で、夏目漱石は文字から意味が剝落し、見知らぬ物として視界に浮上する感覚について記述している。文字を構成する要素の結び付きがゆるみ、統合され形を持ったイメージが解体する感覚。文字だけでなく、ヒトの顔、見馴れたはずの物や風景の視えかたが、ふいに異なった相貌をおびる背景には、人間の知覚・感情と行動の回路の解離があるように思われる。小説の中で、宗助は、過酷な過去の記憶により、社会との行動の回路を絶たれた傍観者として位置付けられている。知覚が、もはや、「行動への回路」へと結び付けられなくなったとき、「別様な知覚」、いままでは、見えてこなかった世界が、降りかかってくる。これは、ひとつの主体が、他者へ、さらには非人称へと変容してゆく経験といえるだろう。
ここでの記述は、積極的な選択としての「静閑」ではなく、状況に関わった事で、逆にそこから排除され、意図せぬままに、「傍観者」の位置に立っているというコンディションです。それは、他者への共感に基づく共感共同体にではなく、帰属意識の希薄な他者の場所、非人称の空間で、個からヒト一般という集合に成るという事でしょうか。
5)「人間の条件」
ケモノの皮を剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖かい人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の惡夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあった。〜中略〜人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。水平社は、かくして生れた。
人の世に熱あれ、人間に光りあれ。
この宣言文は、大正11 年3 月3 日、現在は美術館がある京都岡崎公園で公開されました。近年、閉校された崇仁小学校で当時配布されたチラシが偶然、発見され、現在は柳原銀行記念館に保存されています。横浜での試みは、今回が最後となります。この先は、舞台を京都に変えて、展開を図ることになるでしょう。その時、どのような事故に遭遇できるか、それは予測不可能です。
・・・諸君、古来の月齢法は覇者の政治法でありました。近来の日暦法は科学者の設計法でありました。今、星座法は「事故者」の自由法なのでありましょうか・・・。
○「ポリス」
アリストテレス→アーレント
ポリス:人間(=ポリス的動物)が居住する空間
ノモス(法=垣根)による内(闇)と外(光)の区分
アゴラにおける政治
討議―活動(actio)を本質とする
演技―訴訟
→「人間 humanitas」の条件
⇅
「哲学」の誕生
「政治的なものという虚構 La fiction du politique」(ラクー=ラバルト)
自然(physis)の中に人為的に創作=線引きされた空間
↓
「政治」の創出
ドイツ語圏における美的政治・国家論
想像の国家 シラー・カント・ヘーゲル・ヘルダリン
ヘルダリンのソフォクレス翻訳『オイディプス』『アンティゴネ―』
「祖国的転回」
天に向かう方向――中間休止――祖国に向かう方向
ポリスにおける「ファルマコン=エクリチュール」(デリダ)
エクリチュール(記録)と境界線
理性的なもの/非理性的なもの ← 「ポリスのエクリチュール」による境界線の保証
○「球体」を希求する人間
スローターダイク:《Sphären》Ⅰ(Blasen)Ⅱ(Globen)Ⅲ(Schäume)
Mikrosphärologie,Makrosphärologie,Plurale Sphärologie
前近代における「天球」のイメージ
シンポジオンの「人間」
Artist |
Sir John Everett Millais, Bt |
母胎→子供
泡―球体―生命
↓
生命の創造
↓
浮遊(放浪)
↓
消滅
Cf.『シニカル理性批判 Kritik der Zynischen Vernunft』
シニカル←キニク学派(κυνισμός: κύων)
Zynismus←Kynismus
商業的 反アカデミア
グロティウス『戦争と平和の法De jure belli ac pacis』
奴隷契約の可能性← アリストテレス
正戦の条件
(←西欧諸国の非西欧圏での勢力争い)
シュミット『大地のノモス』
サン・ピエール=ルソー→カント
Projet pour rendre la paix perpétuelle en Europe
カント:『永遠平和のために Zum Ewigen Frieden』
○平和の排他性
ホッブズ 『リヴァイアサン』→ 一つの国家
暴力による支配
シュミット
『政治神学』
例外状態における人格的主権者による「決断」
『政治的なものの概念』
「政治的なもの」→「友/敵」の区別
「人類」は戦争できない
1919.02.06
○「憲法九条」の特異性
「永遠平和」の理念の憲法=国家体制への組み込み
Constitution
⇕
ドイツ 東西分裂―冷戦の最前線
再軍備―NATO加盟
↑
「ヨーロッパ」の枠内への再編入
中沢新一・太田光『憲法九条を世界遺産に』
宮沢賢治の思想→九条
突然変異で生まれた憲法
中沢「犬と人間との関係は、わずかなコミュニケーションとほとんど大部分のディスコミュニケーションでできています。おたがい誤解だらけです。しゃべりかけると『ワン』と返事をするけれど、ほとんどが誤解の『ワン』です。長い間つきあっていると、だんだんと了解も増えてくるんですが、当たっている部分もかなりおおざっぱな了解でしょう。だけど、そうやって犬と散歩をしていると、世界ってこんなふうにできているんだなって、しばしば感動を覚えます。『ああ、夕日がきれいだな』って、僕は感動しているのに、犬は夕焼け空には全然関心がない」
↓
「憲法9条にノーベル平和賞を」実行委員会
『あたらしい憲法のはなし』より
賛同者の署名は以下の宛先へ届けられます
The Norwegian Nobel Committee : Dear Mr.Thorbjorn Jagland (Chair of the Nobel Committee)
世界各国に平和憲法を広めるために、日本国憲法、特に第9条、を保持している日本国民にノーベル平和賞を授与してください please award the Nobel Peace Prize to the Japanese citizens have maintained the Constitution of Japan, Article 9 in particular.
犬のイメージの二重性
:人間への従属性と脱人間性
○「平和」と「悪の陳腐さ」
思考による世界の変革(?)
「陳腐な悪」≠ 軽い悪
「悪の陳腐さ」を裁く正義(法廷) ➡ 「平和」の基礎?
陪審員:瀬野玄愛(東京工業大学)
ビエンナーレ会場の横浜美術館内部において、そこに突如現れる監獄、テニスコート,そして法廷という空間は、ある種の異様ささえ醸し出しており、作家の意図する美術館内部に異質な「外部」を構成するという点において、物/空間として、すばらしい作品であると感じた。また、そこでリフレインされるミニマル的エレクトロニカ的音楽は、何かこれから始まる祭典、あるいは儀式に対する予兆を感じさせるのに効果的であったと感じる。
実際、case4:犬の9条に陪審員として参加した感想としては、「犬の9条」という話しがテーマであったはずであるが、終わってみると、実は犬と9条を結びつける必然性や必要性が全体を通して薄いように感じた。
根本的なテーマとして、自らが他者の中に没入していく過程(芸術においては一方において肯定され必要とされるが、他方において全体主義などとの兼ね合いの中で危険視される)を、半強制された外部的視点から傍観することによって、「平和」とは誰のために実現されるのか(されるべきなのか)について考えるということが目的とされていた。
私が疑問に感じたことは、興奮や没入ということを例示するためにナチスの画像が使われ、それを参加者ほぼ全員が所与のものとして受け入れていたということである。実は、この事実こそ傍観されるべき事実ではないのだろうか。ナチスと平和の対比、あるいは9条との対比、それは誰にとっても火を見るより安易なものである。
しかし、そもそもナチス下における民衆の熱狂と、鑑賞者が芸術作品に没入することは同じことなのだろうか。両者は「熱狂」という言葉によって同等のものとして扱われ,それ故に芸術の危険な側面が指摘され、傍観という立場の必要性が了承される。
しかし、この議論における問題は、ここに作品という「他者」、その存在が想定されてはおらず,むしろ、鑑賞者の視点の綜合によってそれが実現するという発想に固執していることである。ナチス下における民衆において、そもそも何が作品として想定されるのか。そこにあるのは究極的には底なしの無、あるいは例えて言うならば、剥き続けたらっきょうの皮の最後の一枚であろう。
一方で、本当に心奪われる作品を鑑賞した際に鑑賞者の中に喚起される興奮,あるいはそれを超えた恍惚とは何であろうか。それは、時として他者への畏怖、他者性への究極的な讃歌によってもたらされる感情/状態である。そこに物としての作品があり、作者の息づかいがあり,他の何者とも取り替えることにできない作品の固有性/生がある。たとえそれがどのようなメディアによって実現されていようとも,そのようなものがあって初めて作品は作品として成立している。
そのような、とても大きなものに(作品の大きさや規模ではなく)出会う時に受ける鑑賞者の興奮や熱狂的な感情、恍惚感は、まさに芸術が意図する非常に重要な側面であるとともに、ナチスの熱狂とは単純に取り違えられてはならないものであるはずである。
そのような視点から考えた場合,犬の平和/犬の9条の土台が初めて構成されると考える。かつてドゥルーズが、作家のあり方について、「作家は口のきけない畜生どものために書く」と論じていた。もちろん私たちは犬そのものになることはできない。しかし、言葉を持たぬ犬と人間とが持つ世界の境界線ぎりぎりまで接近し,彼ら、そして彼らの言葉にならない叫びを、人間しか持ち得ぬ言語によって表象する。そして、表現不可能なその境界線の限界点において、私たちは新たな言葉を創出しその境界線を押し広げるのである。
9条について,あるいは平和についてこのドゥルーズの考え方を借りて考えるならば、犬という我々の外部という、ある種の跳躍的視点から現状を考察することがアートの領域における仕事ではなく、9条、あるいは平和という概念を持たぬ者を、我々のみ扱える概念によってどこまで考えることができるのか,この点をどこまでも追求していくことにあるのではないだろうか。
それは、他者の存在を確かなもとのして認め、その他者性が持つ奥深さをどこまでも追求することであると言えるであろう。以上が,私が陪審員として参加することによって得た感想である。
陪審員:KS
私は、陪審員としてトリエンナーレ会場内に設置された擬似的な法廷の場に立ち会った。
「犬の九条」というテーマをあまり捻ることなく、素直に「美術館において憲法九条を考えること」と読み替えて参加したつもりである。私は勝手に次のような展開を想像していた。つまり法廷の場において、ロールプレイングの形で憲法九条に関わるトピックについての審理が繰り広げられるのではないかと。したがって、その中で私は「陪審員」という役割を演じつつ、白黒つけ難い事例にあえて判決を下すというプロセスに加わるのではないかと。だが主催者が準備していたのは大枠の主旨の説明と仲正昌樹氏によるレクチャー、そして場所を変えての短い討議であった。つまり法廷という舞台設定にそれほど大きな意味はなかったのである。
これだけの参加者を募って行うイベントとして、これで良かったのだろうかという疑問は正直いって残った。「法廷」「テニスコート」「監獄」というそれぞれの舞台設定は特定の意味を持っているはずであり、その舞台を仮設することで通常の議論とは異なる状況が生みだされ、参加者は個々の属性から離れたひとりの演技者として振舞うことが可能になるのではないだろうか。それならば、芸術という領域の中で、あるいは美術館という空間の中で、遊戯的な要素を含んだ討議の場としての「アゴラ」を創出しようとする試みとして理解できる。
このプロジェクトは、森村氏によるキュレーションへの介入を目的とするというよりは、今回のトリエンナーレを貫く危機意識を、通常の鑑賞体験とは異なるやり方で開いていく機会として、もっと時間をかけて周到に台本・プロットなどを練り上げる企画だったように思う。
陪審員:菩提寺光世(連合設計社/rengoDMS 取締役)
作品参加者としてゲストパスを首に下げて美術館を巡るのは、初めてのことで、無料で出入りできる代わりに、決められた時間に決められた場所に行かねばならない。決められていることで、担保されることがあり、同時に奪われるものもある。九条について何が語られるのだろう。
第二次大戦中に絵画がない額縁だけが残されたエルミタージュ美術館で、学芸員による言葉だけの美術館ツアーが行われた、という話が作品テキストにあった。今、此処にあるのは、過去でも未来でもなく、現在。鑑賞者に未だないイメージ(絵画)を、立ち上がらせているのは、既に見た学芸員の記憶だろう。一人の記憶が、複数の人の画像になり、複数の画像の記憶は、ひとつの出来事としての記憶となって残っている。ある一人の記憶が、私の記憶にまで繋がっていく。
一方で、ソクーロフ監督「エルミタージュ幻想」は、90分ワンカットのエルミタージュ美術館を巡る「歩行視」映像と言えるかもしれない。過去はさらなる過去へと行き来し、美術館の数え切れない絵画と空間装飾の痕跡から、映画作品の画像に17世紀から20世紀にかけてロシア・ロマノフ王朝の歴史を蘇らせる。「犬の九条」法廷は、記憶と痕跡へと向かうのだろうか。
「法廷」でのシーンが終わると、「審議」が行われた。連合設計社/rengoDMSと所属組織名を名乗った私に、その名の由来を問われ「作家性を無くすため」、そう回答した時、脳裏にあったのは、数時間前に目にした展示物、ケージのテキストとチュードアが復元した譜面「4分33秒」だった。無音の演奏でチュードアは、開始とともにピアノの蓋を閉め、4分33秒後、蓋を開けて演奏を終えた。時間に忠実に譜面をめくるチュードアの演奏映像は自宅で見たことがあった。その譜面とテキストが展示されていると思ってもなかった。あと一つ意外だったのは、陪審員コメント02で、この審議が「短い討議」とあったことだ。美術館閉館時間を大幅に越えても、一向に終了の気配がなかった審議が半ば中断するように終了し、外に出たのは19時を過ぎていた。この中断のような終了が、私を含む陪審員たちに「短い討議」の印象を残すものとなったのだろう。一定の時間の長さに関わらず、同じように短いと感じる人がいたことが意外だった。
いずれにしろ、4分33秒をおそろしく長く感じた聴衆と、「短い討議」を、結ぶ何かがあるのかも知れない。
審議の場でそれぞれの発言に共通していたのは、属性の問題だったように思う。
私が注目したのは、テキストにあったナチス親衛隊の会場で、一斉に右腕を掲げた写真だった。
リーフェンシュタール監督の「意志の勝利」で一切の無駄を制する禁欲的な映像美に、この民族を貫く精神と同じ精神が私に宿り導く、という幻想/神話に惹きつけられてゆくことを想像するのは決して難しいことではないだろう。しかしむしろ、私はあのテキストの写真は右手にサイリウムを持たせたら、その手のアイドルのライブ会場そっくりだと思い、それを述べた。
私はなんとなく、サイリウムに九条を重ねていた。
陪審員:橋本誠(アートプロデューサー)
我々は何を審議しているのか、犬の9条をどのような共通感覚の元に参照すべきなのか。陪審員の席に座りながらも主題に置いていかれた感覚を覚え、傍観者として時間を過ごすことになりました。
証言:犬の九条「政治と平和」のイメージの系譜:仲正昌樹
陪審員:室井絵里(インディペンデント・キューレーター)
犬の九条の「犬」は、横浜トライアル側から投げたタイトルであるということで仲正氏は、犬というワードの重要性について言及。
人間にとっての「平和」が果たして犬にとって「平和」なのか。
いや、犬にとって人間の平和は基本的には無関係なものである。
友と敵の区別が政治の本質であり、完全に外部がない「人類」は理念的には戦争できないはずなのだが。
「犬の九条」は犬の二重性、平和と従順な飼い犬・ワイルドな野良犬という意味からシュールな可能性にあふれている。
平和を表象するのは一筋縄ではいかないはずで、全ての人間と仲良くする必要もなく、芸術(前衛芸術)には政治に囲い込まれることのない、政治に利用されることのない野良犬としての役割があるかもしれない。
美術館で芸術を表象して、何かを言い続ける(美術館で戦争というものを考えることができるのかなど)ことこそが美術館を
「無縁」な場所に変容させていく力で、そこから生まれる可能性なのかもしれない。
陪審員:帆足亜紀(横浜トリエンナーレ組織委員会事務局長)
審議の前。
ある本を思い出していた。友人から勧められた本にアメリカのメディアで有名なドッグトレーナーのセザール・ミラン氏による『Cesar's Way』という本。メキシコの牧場で犬とともに育った著者が、アメリカに渡ってペットの犬を可愛がる飼い主が犬の習性を理解していないことに驚き、トレーナーとなる。犬は人間ではなく、あくまでも犬なので、人間としてではなく、犬として扱うことが犬の幸せであると説いた本である。
審議中。
第9条以外の憲法の条文が気になった。表現の自由を守る第21条。生命、自由及び幸福追求に対する権利にかかわる第13条。健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を記した第25条。
共通感覚が話題になっていたからかもしれない。共通感覚とこれらの権利をどう紐づけるのか?芸術祭の運営者は、共通感覚を推進する立場に立ちやすい。しかし、芸術は個人の権利が守られてこそ成立する。
憲法第9条を終戦記念日にあたる8月15日にshing02さんがラップしたとき、それはある抵抗や共感などある共通感覚を持つ場になることを想定していなかったのか?というような質問を高橋さんにしたところ、そんな風なイベントになるとは思っていなかった、というような回答をされた。実際、そのイベントは穏やかに、しらけた雰囲気さえある中で終了した。この話をしているときに高橋さんは美術館の「倫理」について触れられた。
倫理ということばが投げかけられた途端、共通感覚と個人の権利の関係について考えるスイッチが切り替わった。芸術の現場で、共通感覚と個人の権利を守ることのバランスをとるには、倫理の問題を考えなければならない、と考え始めた。
審議の数日後。
皇后陛下が今年の誕生日に発表された内容が気になった。「戦争から敗戦に至る事情や経緯につき知るところは少なく、従ってその時の感情は、戦犯個人個人への憎しみ等であろう筈はなく、恐らくは国と国民という、個人を越えた所のものに責任を負う立場があるということに対する、身の震うような怖れであったのだと思います」。
「個人を越えた所のものに責任を負う立場」にあるものは、芸術の現場にも影響を及ぼしうる。芸術は、それに対抗あるいは抵抗する術として機能するべき、という立場をとるならば、倫理の追求は必須となるだろう。
陪審員:AKI INOMATA(アーティスト)
不穏な時代がきている。
10月17日、私たちは「犬の9条」というタイトルのもと、審議を行った。 審議中、決められた参加者以外は立ち入ることの出来ない、真っ赤な法廷。 私たちの身体スケールよりもだいぶ大きく座ることの出来ない椅子。 その中で、仲正昌樹さんから「政治と平和」のイメージの系譜について、 今より大きく時代を遡ったところから順に、滔々と説明がなされる。
それはまるで、皆で一艘の船に乗り込み、航海をしているような不思議な体験だった。
時として、今を生きる「私」という視点を一度切り離し、海に繰り出すことが必要だ。 私たちは歴史という航大な海を持っているのだから。
陪審員のコメントを随時、公開予定です。