1京都アンデパンダンでの林+中塚による、Court シリーズ(1983〜85)の「再制作」ではなく、彼らも知らない展開の可能性を現在進行形で引き出す。
2展示に関して、一切、林+中塚には相談せず、あくまで彼らを外部の不在のものとして位置づける。
3過去の試みを懐古的に紹介することや、歴史的に再評価するといった「こころ温まる関係」からは限りなく距離をおく。
4一冊の本の形式で展開する横浜トリエンナーレ並びに、森村泰昌芸術監督のディレクションからはみ出す。その為には、作者名を非人称とする事で、内部にありながら外部にあるという特異な参加形式を可能とする。
5日本の最高裁判所と同型の円筒空間を使用する。
6テニスコート(1983)・法廷 (1984)・監獄 (1985)を時系列での提示ではなく、同一平面上の関係項「Model」として提示する。
7美術館廊下に監獄を展示、その両端に、45度と90度の角度で鏡面を設置する事で、トリエンナーレ会場全体に仮構の監獄空間を立ち上げる。
私が思うに、フィクションというのはコミュニケーションのひとつの契機です…証拠品を受け取ることのできる瞬間のことです。そしてフィクションは、受け取られなければ、ひとに見られることのない証拠品にすぎません。証拠品は、人に見られてはじめて、フィクションになるのです。フィクションをつくりあげるのは視線なのです。このことは、警察のファイルやコンピュータにおさめられている証拠品はただの証拠品にすぎないということを考えれば、すぐにわかるはずです。警察には証拠品としての顔写真は何百枚とあります。そして警察官がそのなかの諸君の写真をじっと見つめながら、《おい、おまえだな、これこれの日にこれこれの場所で年老いた母親を殺したのは…》とつぶやくとすれば、そのときはじめて、そこにフィクションが生まれるのです…(ジャン=リュック・ゴダール「映画史」)
Turn Coat とは「裏切り」の意味、Turn Court は「裁判をひっくり返す」という意味。Turn とは、また、レコードのターンテーブルとも意味が繋がり、「赤い法廷」の弁護士と検事の机に「DJのターンテーブル」を設置する。巨大な裁判官の席には電動で机を打ち付ける裁判用のハンマーを設置。その裁判官の席でラッパーが「日本国憲法をラップする」。プロジェクトは赤い法廷と青い監獄と綠のテニスコートのMODELからなるもので、横浜美術館の円筒の展示場と廊下を占める。これらのMODELは鏡面を介して大きさの尺度を変換しながら繋がっている。この巨大なモデルの中を漂流することで、観客は裁判官、被告、弁護士、検事、傍聴人、プレーヤー、審判、監視、囚人といった複数の役割を引き受ける。