Temporary Foundation

法と星座turn coat / turn court
プロジェクト詳細
1)プロジェクトの記述に関して

私たちは話すことを視ず、視ることについて話さない。《法と星座・Turn Coat / Turn Court》は、林剛+中塚裕子が1983-85年に「京都アンデパンダン展」で発表した「Court」シリーズにおける「視ること・話すこと」の位相を変え「身体・領土・健康・安全」へと再配置する試みである。

150文字に限定されたステートメントの中で理屈は機能しないかもしれませんが、もし記述内容について問われれば、その背景はあるという形式になればと思いました。まず、「私たちは話すことを視ず、視ることについて話さない」。
これは、文化的経験としての美術が無数の言説に取り囲まれており、特に現代美術関連の作品経験は、それら目に見えない言説のゲームを読み・関連させる事が鑑賞者に求められている事に関係するコメントとなっています。歴史や芸術学などアカデミックな共同体が形成する言説だけで無く、たとえば横浜トリエンナーレも含め、プレス向けの「広報」なども、「情報・知」の流通という形で、作品経験の言説的生産の側面を担うことになります。「言説を読み取る作業」の「流通」が可能にする「鑑賞形態」の生産が成立するという意味で考えています。もう一方の「視る」ことですが、ここでは個人の視覚経験ではなく、美術という枠組みの中で、ある役割を担う役者・主体が、その割り振られた位置・光源から視ることが可能になるという作用を意味します。一般的な例としては、近代の監獄に於ける「一望監視装置」が挙げられます。これは、監視する者は、個別の牢獄に入れられた囚人に視られることなく、全員の身体・動きのみならず精神の内部まで視ることを可能にしています。ここでの「監視する者」は、君主や王など特定の固有名をもった人間である必要はなく、「誰か」が視ているという事が、「監視されているもの」の側に内在化されていれば良いという事です。このような「誰か」は、非人称である事で「監視する」という権力を機能させることが出来ます。そして「一望監視装置」という建物による「光と影と視点」の配置がこの「監視」を可能にしています。美術に於いても「私達が話すこと」の体制と「視ること」の体制は、同一の体制ではなく、それぞれ独自な体制があり、それらは直接的にではなく、離接的な形で関係していると考えます。そして、離接的な形で関係を構築するものを「権力」という概念としています。この「権力」という概念ですが、ここではフーコーに沿った形で敷衍しています。従来の階級闘争など、ある主体が所有して他者を抑圧するというイメージではなく、個人個人の欲望や身体を貫通することで、消費や生産を促す作用という位置付け。例えば、株の値段は刻々と変化しています。個人個人の投資家や、政府機関の介入などがあるものの、株の動きそのものに着目するなら、そこから構成される主体は、非人称的なものであり、特定の個人が所有する権力という意味でなく、「機能」という事になるかと思います。今回の横浜での一連のプロジェクトは、フーコーの「権力」論に繋がる「非人称」という言葉を、「作者・作品」との関係から考察するという事になります。実在する固有名の存在に対応するものではなく、「機能」としての「作者」。例えば1983年の「天女の庭」では、林剛と中塚裕子に加えて概念人物としての「犬」と「天女」という存在が参加しています。そして、これら4項目がプレーを形成する事によって成立する場が作品ということになります。現時点での流れから顧みると、本プロジェクトでは4項目のモジュール(基本単位)に「その他」が加わることで、異なった編成のモジュールに展開してゆくことになってきました。その意味では、機能としての「作者」は非人称のままかと思います。
次に「Court」シリーズにおける「視ること・話すこと」の位相ですが、「I氏」「犬」「天女」「hiroko」らが「場・箱庭」を占めて展開する「お話」と、それらを医者のように解析する「メタ物語」という二重の物語が交錯する形でプロジェクトの流れが進行する形式を取っています。会場に迎え入れられる鑑賞者は錯綜する物語には必ずしも対応する形ではなく、主に自己の占める視点から出発して、反省的・間接的な形で、仮構の天女や犬などの位置と、視ることを経験し複数の主体・役者の役割を仮に演じることが、とりあえずの作品経験の始まりとなっています。ここでは、「話すこと」と「視ること」の位相は平行的に展開するのではないと思います。横浜でのプロジェクトの試みは、今から30年前の1983年へではなく、いつの時代か不明、どこの場所かも未定の時空へと、未知の鑑賞者を迎え入れることへの配慮が肝要であると思います。ただ、逆説的な物言いになってしまいますが、横浜トリエンナーレのような特定のバイアスがかかった空間でcourtシリーズを展開する場合、現代美術の作品表現の枠から逸脱する形で、社会に流通する複数の物語とのスタンスの取り方を考慮する事にも意義があるとも考えました。その理由から、生な政治的な言語である「身体・領土・健康・安全」という言葉をプロジェクトの記述に配置しました。これら「身体・領土・健康・安全」に関わる言語・資料・装置や関連イベントを横浜で試みる事で、1983年の犬・天女に於ける「話すこと」と「視ること」の位相が、現在に再配置可能であることが示せればと思います。そしてその事で、逆に、このような作業が、過去の美術史的事件のいま・ここでの再評価ではなく、見知らぬ人たちを、どこでもない未知の時空へと迎え入れる祝福の作業になればと思います。


プロジェクト詳細
2)テニスコート、法廷、監獄と身体を貫通する生権力

テニスコートから法廷へ、さらに監獄へという展開のプロセスは、court という言葉を事物のように触知可能な形で扱い、実際の事物を言葉のような軽い存在として扱うという作業です。これは林・中塚二人だけの合意事項でなく一般的な形で共有可能な部分かと思います。一方で、特異な仮面・人格を創造し、それらの心理・情動反応も含めた半ば秘密の物語の展開に関しては、林・中塚二人だけの合意事項であり、一般的には共有不可能な気がしています。テニスコートでは、鑑賞者は、自我分裂ゲームに導かれる犬・I氏と、分裂状況を判断する審判らの複数の視線の運動をボールの運動になぞらえ経験することが出来て、鑑賞という見方のルールと観戦という別の見方のルールを精神分析的に重ね合わせることになります。法廷ではテニスコートと同一の人格たちが、コスチュームを着替える、つまりコートの裏地を見せて着替えるという形で虚構の訴訟の物語へと場が変換されます。そして鑑賞者にも「言葉で記述し、言葉で裁く」を「観察する」と結びつけよ、という新たな見方、あるいは少し意地悪な謎かけのルールが追加されます。ここから監獄への移行のプロセスは、素直な展開に見えます。また、テニスコートから法廷そして次に監獄へという流れも、リニアな時間軸での展開にも見えます。今回の横浜での設置は、このリニアな時間軸での展開に少し疑問符を振り、「ダイアグラム」という平面上における相互関係の構成で配置をしています。それは「話すことの体制」と「視ることの体制」との平行的ではない関係へ着目するという意味になるのかと思っています。例えば、法廷では法という「話すことの体制」における分類表を巡って、その適合領域が競われ、罪の価値が刑期や罰金として数値化されます。監獄において受刑者に課されるものは、規律・訓育に基づく自己の身体・運動・精神作用の更正であり、それが監視という「視ることの体制」の基に進められます。この「視ることの体制」は監獄だけでなく、学校・工場・病院などにおいて、個人の身体と精神を貫通する権力として、生産・消費・管理をおこなう体制と並行的な関係にあります。一方で「話すことの体制」である法廷は、監獄という「視ることの体制」ではなく、精神鑑定などの心理学的言説、証明に関わる自然科学的言説など、特定の分類表をもった話すことの体制と親和性を持つことになります。また、現在の時点ではリニアな同系列にみえていますが、歴史的な展開でも、監獄という体制と法廷という体制は個別に展開してきたものであるされています。面白いのは、このように異なった体制に属する、監獄と法廷が関係するのが、監獄という制度が導入された当初から、その不完全性、試みの失敗の必然が織り込まれていたという点です。犯罪を繰り返し算出する温床の場としての監獄が、社会の中に「非行」を分散・配分させる事になり、その事が逆に一般の個人の内面に監視カメラを埋め込む効果に繋がる、と同時に「非行者」が連合する形で政治化する可能性を下げるという効果であると言われています。テニスコートは、監獄との繋がりが見えにくいですが、視線の運動だけでなく、ここの身体を規律・訓育する作業としてのスポーツ、あるいはオリンピックなど国家とスポーツの親和性を考慮に入れると、関連性が明らかになってきます。テニスコート、法廷、監獄は、「話すことの体制」「視ることの体制」が「身体を貫通する生権力」において離接的に響き合っている。そのような構成で、いまは進めています。